青森県すし業生活衛生同業組合

新着情報

NEWS

2018.09.25 握り寿司を通して心を売る商売①

干物やお茶漬けで商売していた屋台時代

青森市に出張して来るサラリーマンや観光客の多くが訪れるという「一八寿し」。「いやー、ただ昔からあるというだけですよ」と店主の西村力さん(78)は謙遜するが、いやいや、「いつ訪れてもネタが新鮮だし、値段も手頃」「気軽に食べられる」「ネタもそうだが、シャリがおいしい」などといった声も多く聞かれる。

 その西村さんがこの世界へ入ったきっかけとなったのは、学生時代に寿司屋をやっている先輩の「いらっしゃい」という姿を目にした時。その掛け声が粋で格好良く、以来料理人に憧れていたという。それで中学校を卒業後、東京へ。

 その後、北海道など各地の寿司店や料理店で修業したり、旅館の板場で手伝いもしていたこともあった。好きな世界なので、どんなに厳しくても毎日が充実していた。

「大先輩のそばでいろんなことを勉強できるだけでも嬉しかったね。仕事を早く覚えたい一心で、やり過ぎてよく怒られることはあったけど」と西村さんは笑う。

 東京で働いていた24歳の時、長女が産まれたのをきっかけに青森で自分の店を持とうと決心し帰郷する。運良く善知鳥神社の前に5,6軒あった屋台のうち1軒が売りに出されていたため、その屋台で寿司屋を始めたのが最初だった。「一から始まって、末広がりになるように」という思いで名付けた店名が「一八」である。

 1964(昭和39)年当時、青森市内には寿司屋はもうすでに40数軒あり、その3年前に食品衛生法が変わって屋台では商売はできなくなっていた。禁止されることを覚悟の上で始めたものの、開店してから1週間もしないうちに、「生物を扱ってはいけない」と勧告される。仕方なく弟と一緒にサンマやホッケ、マグロのカマ、カレイなどの干物、揚げたてのトンカツなどを売った。焼いた干物で出汁をとり、お茶漬けにして出したところ、これが大人気となった。

「主にクラブ勤めの女性たちが店へ出る前に食べていくんです。当時景気が良いものだから、連日のように屋台の前にその女性たちの行列ができ、それはにぎやかなものでしたよ。サケ茶漬け、タイ茶漬け。ノリ茶漬け、マグロ茶漬けなど飛ぶように売れ、面白いなんてものじゃなかったねぇ」と西村さんは当時を振り返る。

 屋台での商売は1年間で、屋台禁止条例ができたために新町に6坪という小さな店舗を構えた。カウンターと畳2畳分の広さだったが、ようやく念願の寿司屋を開業することができたのである。

 その当時、まだまだ一般家庭で寿司を食べるというのは、正月など年に数回程度。しかし一八寿しを開業して以来、お客に困ることはなかったという。店名が馴染みやすかったこともあるが、苦しい時代もあり、それを乗り越えてやってこれたのは、常連客と業者、従業員に恵まれたことだった。周囲の支えがあったからだという。

「私はいろんな店で働いてきました。若かったから歓迎されたのでしょう。そして、たくさんの仕込みや調理などのやり方を見てきました。ですから根底には“自分は雑草だ”という思いがあります」

 新町の小さな店から現在の場所には移転したのは昭和50年頃。独立して寿司を握ってもう54年になる。